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相手の能力を奪わない支援へ

 

そもそも「支援」とは何でしょうか?

 

「支援」という字は、「支える」と「援助する」を組みあわせてできています。

一般的な意味としては、他人を支え、助けることとか、困難な状況にある人に力を貸すことなどとされるでしょう。

 

日常的に人が人を支援する多くの場面があります。

子供を支援する親、児童・学生を支援する教師、若手社員を支援する先輩・上司、病気や怪我・障害をお持ちの方を支援する周囲の人々。

 

支援者が相手(被支援者)に支援をし過ぎると、被支援者は自ら考える・選択する・行動する機会を失ってしまい、顕在的・潜在的に持っていた能力を使わなくなり、やがてその能力を使えなくなってしまうことがあります。

 

被支援者は自身の問題を自ら解決することを試みず、誰かを当てにするようになり、支援は一時的でなく永続的なものになってしまいます。支援への依存が生じてしまう状態です。

 

難しいのは支援者が相手(被支援者)を思うばかりに、良かれと思ってやっている行為が結果的に被支援者の力を奪ってしまうという点です。

 

認知症ケアで注目されているものに、「ユマニチュード」という技法があります。

技法の考案者であるイヴ・ジネストさんは、「ケアをするとき、最も重要なことは『正しいレベルのケア』をすること」と仰っています。

 

「相手(被支援者)にとって正しいレベルとは何か」を考えたうえで、「必要で、しかもやり過ぎではないケア」を実施するそうです。

 

例えば、介助があれば歩ける人を車椅子で運ぶことはしない。

40秒でも立てる人には、ベッドの柵につかまり立ちしてもらい、その状態で体を拭く。疲れたら座ってもらい、立ったり座ったりしながら体を拭くことで、寝たきりになることを防ぐ。

 

このような支援により、支援者が被支援者の「歩く能力」「立つ能力」を奪わないようにする。結果、多くの認知症患者の状態が維持・改善しているそうです。

 

支援の在り方を考えるうえでは、①何を目的としているか、②どこをゴールとしているか、➂誰のために行われているか、この3点が大切ではないでしょうか?

 

何より、➂は支援者のためではなく、被支援者のためでなければなりません。

相手を想う支援が相手の能力を奪うものになってしまっては本末転倒です。

 

支援を受ける人の多くは、一時的に or 部分的に困っているだけであって、本来多様な能力を持つ人だと思います。

 

支援者は、被支援者の多様な能力を奪うことなく、困っている時に、困っている部分をご支援する。更には、被支援者の潜在的な力(見えないチカラ)を引き出す。こうした支援が本当の支援ではないかと思います。

 

支援者に求められているのは、いつまでも「支」えて何でも「援」助し続けることではなく、必要に「応」じて「援」助すること(必要な人に・必要な時に・必要なことを)ではないでしょうか?

 

支援から応援へ。見えないチカラを見えるカタチに♪

企業や人の挑戦を応援する一人の支援者として、私の根底にある考え方でもあります。